【後編・みかんの歴史】
前編でみかんの家系図(系統図)を見てから、「このたくさんの種類って、そもそもどうやって生まれたんだろう?」と素朴な疑問が湧いてきました。
前編はこちらから [みかんの家系図から知る、柑橘たちの意外なルーツと旬ガイド]
そこで、みかんの歴史や背景について自分なりに調べてみたところ、昔のみかんがどんなものだったのか、日本に届くまでの途方もない歳月、そして現代の科学のすごさなど、「へぇ〜!」と驚くような面白い話がたくさん出てきました。
※ちなみに、古い文献などに記録が残っていなくても、葉っぱや種のDNA(ゲノム解析)を調べることで、どの品種とどの品種が親なのかが100%科学的に分かるそうです。
最初の「みかん」はどこから来たの?
「みかんの歴史って、いつ頃まで遡れるんだろう?」と思って調べてみたら、今から約800万年前(新第三紀ミオセン紀)の古代アジアにたどり着きました。 誕生した場所は、現在の中国雲南省からミャンマー、インドの国境あたり(ヒマラヤ山脈の南東のふもと)です。
ヒマラヤと聞くと極寒の雪山を想像しますが、800万年前はまだ山が低く、あたたかく湿り気のあるジャングルだったそうです。 今の厳しい自然環境からは想像もつかないような場所で生まれたと思うと、地球の環境の変化ってすごいなぁと感じます。
そこから気候の変化とともに、柑橘たちは何百万年もの時間をかけてさまざまな地域へ渡り、その土地の環境に合わせて姿を変えていきました。
・南のあたたかい地域(東南アジアなど)へ渡ったグループ
豊かな太陽と水分をたっぷり吸収して、ズッシリと大きく育ったのが「文旦(ブンタン)」の仲間です。
・北の少し寒い地域(中国の内陸部)へ渡ったグループ
寒さに耐えられるよう、皮が剥きやすく小ぶりな姿にキュッと引き締まったのが、「温州みかん」などのマンダリンの仲間です。
・西の乾燥した地域(中東やヨーロッパ)へ渡ったグループ
乾燥に耐えるために皮が厚くなり、爽やかな酸味を持つようになったのが、レモンの原種である「シトロン」です。
日本に初めてやってきた柑橘は「薬」だった?
では、日本にはいつ、どうやって入ってきたのでしょうか?
記録に残っている一番古いお話は、約2000年前の古事記や日本書紀の時代、第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代です。
当時は医療技術も薬もなく、病気は現代以上に人々の命を脅かす恐ろしいものでした。特に天皇の不調は国全体の存亡に関わる大問題です。そこで天皇は、どんな病も治し、永遠の命をもたらすと信じられていた神聖な果実「非時香木実(ときじくのかぐのこのみ)」を探し出すよう、強く信頼していた臣下の田道間守(タジマモリ)に命じました。
命を受けたタジマモリは、常世の国(とこよのくに=遥か海の彼方にあるとされる伝説の国)を目指して大海原へ旅立ちます。
当時は船を進めるのに羅針盤もエンジンもなく、星の位置や風だけを頼りに木造船で進む時代です。一度沖に出れば生きて戻れる保証すらない、文字通りの命がけの航海でした。
現地で果実を探し出し、枯らさないように生きた苗木や果実を抱えて日本へ持ち帰るまでに、なんと約10年もの歳月がかかったそうです。
しかし、彼が命を賭して日本へ戻ったとき、待ち受けていたのは悲しい現実でした。試練を乗り越えて持ち帰った甲斐もなく、天皇はすでに息を引き取っていたのです。
タジマモリは天皇の陵墓の前で深く嘆き悲しみ、泣き叫びながらそのまま息絶えたと伝えられています。
このとき彼が命がけで持ち帰った果実こそが、日本固有の野生の柑橘「橘(タチバナ)」です。
当時は「果物=甘いお菓子や薬」という貴重な存在でした。昔の日本において「菓子」とは果物のこと(水菓子)だったそうです。
現代でも和菓子の世界では柑橘の皮や果汁、橘のモチーフがよく使われますし、柑橘=お菓子の原点とされているんですよ。
命を賭して未知の果実を持ち帰った田道間守(タジマモリ)は、その大きな功績から、今も「菓子の神様(菓祖神)」として崇められています。
タジマモリをお祀りする総本家は、タジマモリの故郷とされる兵庫県豊岡市にある「中嶋神社」です。
■ 中嶋神社(総本家)
・所在地:兵庫県豊岡市三宅1-1
・概要:全国の製菓業者や和洋菓子職人が参拝に訪れるお菓子の総本山です。
・公式サイト 中嶋神社:https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6408018.html
そして実は、ここ愛媛の道後温泉街にある「湯神社(ゆじんじゃ)」の境内にも、この総本家から御分霊をお迎えした『中嶋神社 四国分社』が鎮座しています。
■ 中嶋神社 四国分社(湯神社 境内社)
・所在地:愛媛県松山市道後湯之町20-8(湯神社境内)
・概要:昭和32(1957)年に四国四県の製菓業者の方々によって創建されました。境内の玉垣(石の柵)には四国の和洋菓子店や製菓業者の名前が刻まれています。
・公式サイト 湯神社:https://yu-jinja.official.jp/
道後温泉本館すぐ近くの高台(冠山)にありますので、道後におでかけの際は、ぜひお立ち寄りください。
また、昔のみかんは今のように甘くなく、酸っぱさや苦みが強いものでした。そのため、みかんの皮(陳皮)に含まれる精油成分(リモネンなど)は、風邪や消化不良を和らげる「漢方薬」として重宝されていたそうです。
さらに、冬でも葉が落ちずに黄金色の実を長くつけることから、「永遠」や「不老不死」の象徴として宮中に飾られたりもしました。
今では野生の橘は珍しく、絶滅危惧種に指定されています。実はここ愛媛県(南予の愛南町鹿島など)にもごくわずかに自生しているのですが、とても希少な存在なんです。現在では奈良県や三重県などで大切に保護・栽培されていて、「やまとたちばな茶」やアロマオイルなどとしても使われているんですよ。
明治になるまで「温州みかん」は嫌われていた?
中国から日本へ様々な柑橘が入ってくる中で、室町時代から江戸時代初期(約400年前)にかけて、鹿児島県(長島)で中国の柑橘の種から偶然生まれたのが、現在の「温州(うんしゅう)みかん」です。
種がなくて甘く、手で剥きやすいという最高のみかんなのですが、実は江戸時代の人々にはほとんど食べられていませんでした。
江戸時代に人気だったのは、小粒で種が入った「紀州みかん」だったのです。
当時の武士や人々は、「種がない=子宝に恵まれない(子孫繁栄につながらない)」として、「不吉だ」と敬遠していたそうなんです。今の感覚からすると驚きですが、時代の価値観の違いって本当に面白いですよね。
ですが明治時代に入ると、時代が一変します。
武士の世が終わり「種なし=不吉」という迷信が気にならなくなったことで、逆に手で簡単に剥けて、種を吐き出さずに食べられる手軽さが大絶賛されるようになったのです。
さらに鉄道の発達で全国へ大量に運べるようになったことや、アメリカへの輸出が始まったことも追い風となり、温州みかんは一気に「日本のみかんの代名詞」として全国へ広まっていきました。
日本のみかん歴史
ここで一度、みかんがたどってきた歴史の流れを年表で整理してみます。
【みかんの歴史の流れ】
・約800万年前 ヒマラヤ山脈のふもと(古代の亜熱帯ジャングル)で原種が誕生
・約2000年前(古事記・日本書紀の時代) 田道間守が「橘(タチバナ)」を持ち帰る(薬や飾りに使用)
・約400年前(江戸時代初期) 鹿児島で偶然「温州みかん」が誕生(当時は種なしが不吉とされ不人気)
・明治時代〜 温州みかんの魅力が見直され、全国へ一気に広がる
・昭和30〜40年代 全国で温州みかんが作られすぎ、1970年に「大暴落」が発生
・1970年代〜 量から質へ。「清見」を母として、手塩にかけた高級ブランド柑橘の開発がスタート!
同じ味のみかんを増やせる秘密とは?「接ぎ木」の知恵

子供の頃、食べたみかんの種を眺めて「これを植えたら、また同じみかんができるのかな?」なんて思った経験はありませんか?
実は、みかんの種を土に植えても、親と同じ美味しい実を安定して生らせるのはとても難しいのです。種から育てると実がなるまでに6〜10年もの年月がかかる上、木の勢いが強すぎて実がつきにくかったり、味や品質にばらつきが出てしまったりします。
そこで使われているのが、「接ぎ木(つぎき)」という技術です。
中国原産の「カラタチ」という植物は、実は酸っぱくてそのままでは食べられませんが、病気に強くて根っこが非常に丈夫という特徴を持っています。このカラタチを土台(台木)にして、そこに増やしたいみかんの枝をチョキンと切ってくっつけます。
そうすると、枝のDNA(遺伝情報)がそのまま受け継がれるため、親と同じ品種の美味しい実が、およそ3〜5年ほどで収穫できるようになるのです。
江戸時代に定着したこの知恵のおかげで、私たちはいつでも変わらない品種を食べられているんですね。
実はこの「接ぎ木」という手法自体は、現代でもみかん農家さんの現場で変わらず使われている現役の技術ですが、時代とともにその技術や品質管理は大きく進化してきました。
・戦前・昭和(経験と職人技の時代)
熟練した農家さんの経験や手作業の技術に頼って行われていました。
・現代(科学技術と衛生管理の時代)
病気(ウイルス)に侵されていない綺麗な苗木(無ウイルス苗)を育成する技術や、切断面の乾燥を防ぐ専用の接ぎ木テープなどの資材が開発されました。
また現在では、病害虫への強さや土壌との相性を科学的に研究して台木を選べるようになるなど、より失敗が少なく、高品質なみかんを安定して育てられるように技術が進歩しています。
・戦前・昭和(経験と職人技の時代)
熟練した農家さんの経験や手作業の技術に頼って行われていました。
・現代(科学技術と衛生管理の時代)
病気(ウイルス)に侵されていない綺麗な苗木(無ウイルス苗)を育成する技術や、切断面の乾燥を防ぐ専用の接ぎ木テープなどの資材が開発されました。
また現在では、病害虫への強さや土壌との相性を科学的に研究して台木を選べるようになるなど、より失敗が少なく、高品質なみかんを安定して育てられるように技術が進歩しています。
愛媛の「3つの太陽」と、大暴落からの大逆転
愛媛の西宇和や八幡浜など、みかんの産地では昔から「3つの太陽」と呼ばれる言い伝えがあります。
1. 空からの直射日光
2. 海面から反射して下から照らす光
3. 段々畑の石垣が温まる蓄熱(輻射熱)
水はけが良い南向きの急斜面で、この3つの太陽の光と熱をしっかり浴びることで、あの濃密な甘さが生まれます。
ですが、日本の定番だった温州みかんは、作られすぎたことによって1972(昭和47)年に年間約350万トンという大過剰生産になり、価格が大暴落してしまいました。
この大暴落をきっかけに、「たくさん作って安く売る」から「1個ずつ丁寧に育てた、今までにない高級ブランド柑橘を作ろう!」という大挑戦が始まりました。
研究者と農家さんがタッグを組み、1972年に誕生したのがお母さん品種の「清見(きよみ)」です。
温州みかんとオレンジを掛け合わせた清見は、掛け合わせた相手の良さを引き立て、美味しい新品種を生み出すという奇跡的な才能(性質)を持っていました。
この清見の誕生があったからこそ、現代の紅まどんな・甘平・せとか・デコポンといった愛媛の高級ブランド柑橘が次々と生まれたのです。
実は、今全国で盛り上がっている高級ブドウやイチゴなどの「日本の高級フルーツブーム」も、このときのみかんの挑戦が原点だったと言われています。
何気なく調べてみたみかんの歴史でしたが、途方もない年月とたくさんの人の情熱を経て届いているのだと分かり、みかんがとても愛おしく感じられました。
皆さんもみかんを味わう時に、「そんな歴史があったんだな」とふっと思い出していただけたら嬉しいです!
HESUN ヘスン
